1938(昭和13)年 ~ 1944(昭和19)年
名古屋第一工学校設立
名古屋第一工学校は、1939(昭和14)年4月、名古屋市中区千早町で産声をあげた。
初代校長には、眞嶋正市東京帝国大学教授が就任した。眞嶋校長は、創立者三浦幸平が学んだ東京物理学校の恩師で、工学博士、のちに国の文化功労者となる。
一部(昼間)、二部(夜間)の二部制で、修業年限は3年、電気工学、機械工学、応用化学の3学科を設置し、昼間部は、電気工学3、機械工学5、応用化学1学級の堂々たる編成であった。
校舎は若草色塗りの木造瓦葺き2階建て2棟、生徒たちの制服・制帽はともにカーキ色、帽子は二条の白線入りであった。
経営は順調で、たちまち教室や実習場が不足し、1942(昭和16)年には本校から歩いて5分の距離にある老松町に分教場を設置した。
1945(昭和20)年 ~ 1950(昭和25)年
戦火によりすべて焼失、名古屋工業中学校開校
1945(昭和20)年3月19日、名古屋第一工学校にとって運命の日を迎えた。名古屋大空襲である。
警戒警報発令が19日午前1時45分、空襲警報発令が2時ちょうど、解除が4時54分。悪夢としか言いようのない2時間54分だった。名古屋第一工学校と分教場(実習工場、寄宿寮等)は全て炎の中に崩れ落ちた。1945(昭和20)年8月15日、戦争は終わった。
戦後の学制改革により、これまでの中学校は単独、あるいは合併によって新制高等学校へ変身していった。名古屋第一工学校も高等学校へ変わるべく努力をしてみたが、各種学校であったため、そのままでは新制高等学校への昇格は許されなかった。
そこで、名古屋第一工学校はそのままにして、別の新制度による名古屋工業中学校を設置して、名古屋第一工学校からの編入生を受け入れたが、校舎がなく、新たな入学志願者も皆無で、1948(昭和23)年、82人の卒業生を送り出した後は有名無実の状態が続いた。
一方、名古屋第一工学校は愛知女子商業学校(名古屋市西区菊元町)の教室を借りて、残った生徒の授業を細々と続けたが、1949(昭和24)年3月、30人の卒業生を送り出した後は応募者も無く、自然に休校状態となった。
まる1年間、生徒がいない、一番苦しい時期であった。
名古屋第一工業高等学校の前身、常磐高等学校開校
1950(昭和25)年のはじめ、学校再建のチャンスがおとずれた。知人から、名古屋第一工学校と同じように「戦災で校舎を全焼し、無一物となった財団法人愛知常磐女子商業学校が、経営者に再建の意思が無く、法人を譲渡したがっている」という話が持ち込まれたのだ。
すでにある財団法人を受け継いで、新制高等学校を設立するのであれば、校舎、設備が多少基準に合わなくとも“再建途中”ということで認可が受けやすい。さっそく譲り受け、「1年以内に鶴舞校地に校舎を建てること」という条件はついたが、1950(昭和25)年3月14日、設置認可となった。
とりあえず、西区の愛知女子商業学校の厚意で校舎の一部を借り受け、1950(昭和25)年4月1日、常磐高等学校は開校した。
1951(昭和26)年1月には、移築した2階建て木造校舎が完成し、仮校舎を引き払って、やっと鶴舞の地に落ち着いた。
戦災で全焼して以来6年ぶりのことであった。
1951(昭和26)年 ~ 1961(昭和36)年
1951(昭和26)年は、学園にとって新たな出発の年であった。
財団法人常磐学園は私立学校法に基づき、学校法人三浦学園に組織変更することになり、1951(昭和26)年3月8日付けで認可された。また4月には鶴舞幼稚園が開園した。
三浦学園は常磐高等学校と休眠中の常磐中学校、名古屋第一工学校、そして鶴舞幼稚園を持つ学校法人になった。
常磐高等学校は普通科のみであったが、その後、電気通信科、機械科などを設置し、ようやく教育環境が整ってきたので、1957(昭和32)年12月8日の19周年記念日を期して、常磐高等学校を名古屋第一工業高等学校と名称変更した。
1958(昭和33)年2月には念願の鉄筋コンクリート4階建て校舎、1959(昭和34)年4月には鉄筋コンクリート6階建て校舎が完成し、戦火で校舎を焼失して以来13年目の快挙であった。この年の4月8日、新装の校舎6階の講堂で行われた入学式で、三浦幸平校長は「日本一小さな高校が、日本一高い校舎を持った」と胸を張った。
1962(昭和37)年 ~ 1968(昭和43)年
中部工業短期大学開学から中部工業大学へ、そして、中部工業大学附属高等学校開校
戦災による校舎焼失、戦後の混乱、物資の不足、学制改革…。あらゆる苦難を乗り越えて、名古屋第一工業高等学校を復活させた創立者三浦幸平の行動力は計り知れないものがあった。
社会は、昭和30年代後半から所得倍増の掛け声と共に、高度経済成長の階段をかけ登っていた。産業界のめざましい躍進によって、工業技術者の需要が高まる一方、高校進学・大学進学希望者も多くなってきた。
ようやく学校経営も軌道に乗り、いよいよ工科系の大学設立という夢の実現に向かって進むこととなった。
中部工業短期大学設立の計画は、春日井市松本町の丘陵地に広大な土地を取得してその実現に向けて出発し、1962(昭和37)年1月20日付けで設置認可を得た。
1962(昭和37)年4月、中部工業短期大学は機械科と電気科の2学科で産声をあげた。
4年制の工科系大学の創設は、短期大学設立以前からの予定路線であり、着々と準備が進められ、1964(昭和39)年4月には待望の中部工業大学(現中部大学)が機械工学科、電気工学科、土木工学科、建築学科の4学科でスタートし、初代学長には三浦幸平が就任した。
1965(昭和40)年4月には、大学キャンパス内に中部工業大学附属高等学校(現中部大学春日丘高等学校)も開校し、三浦学園は、まさに躍進の時代の幕開けを迎えた。
1969(昭和44)年 ~ 1974(昭和49)年
学園創立30周年、大学院工学研究科と博士課程を設置
創立30周年記念事業(図書館、体育館建設など)の完成を待って、1969(昭和44)年11月19日(大学の開学記念日)に、三浦学園創立30周年記念式典が挙行された。
創立者三浦幸平は、創立以来30年間の学園の苦難を乗り越えた飛躍的な発展と学園内外の方々の協力に対して感謝を述べ、さらに遠大な将来計画に言及した。その将来計画には、夢であり願望でもあった大学院の設置があった。
大学院の第一歩は、昭和46年4月、大学院工学研究科機械工学専攻、電気工学専攻の修士課程の設置であった。次いで、昭和48年4月には機械工学専攻と電気工学専攻の博士課程を設置するとともに、建築学専攻と工業化学専攻の修士課程を設置した。さらに昭和49年4月には土木工学専攻の修士課程を設置した。
一方、学園は、将来の規模拡大を考えて、第三の校地を求めることになり、国鉄(現JR)中央線武並駅(岐阜県恵那市)の南の丘陵地を取得した。ここには、まず総合グラウンドを建設し、次に研修センター棟の建設にとりかかった。また北アルプスの中央、穂高連峰の飛騨側で、目の前に槍、穂高を望む上宝村カルカヤ(現高山市)の地に温泉付きの土地を取得し、ここに山荘とロッジを建設した。
この時期、学園は海外にも目を向けており、その第一弾はアメリカのオハイオ大学との姉妹校提携であった。
1975(昭和50)年 ~ 1983(昭和58)年
創立者 三浦幸平逝去
三浦学園の創立者であり、理事長・学園長・中部工業大学長の三浦幸平が、1975(昭和50)年6月7日逝去し、学園は深い悲しみに包まれた。
日ごろは極めて健康であったが、多年にわたる激務の疲れもあって、1974(昭和49)年夏ごろから身体に異常を訴え、翌年1月6日、再生不良性貧血症のため愛知県職員病院(現愛知三の丸病院)に入院し、治療と療養に専念していた。
多くの人々の励ましを受け、一日も早い回復が望まれ、あらゆる手立てが尽くされたがその甲斐もなく、6月7日、急に病状が悪化し、心不全のため午後9時35分、家族に見守られながら、息をひきとった。享年84歳。
学園葬は6月27日、名古屋市民会館大ホールにおいて、しめやかな中にも荘厳に営まれた。「葬送行進曲」が静かに流れる中を、白布に包まれた遺骨と遺影が捧げ持たれ、正面祭壇の中央に安置された。大学の入学式以来2カ月ぶりに見る創立者の変わられた姿に、満場声なく深い悲しみが垂れこめ、葬儀に参列した2,500余人におよぶ広範な各層の方々が創立者の功績と遺徳を偲び、別れを惜しんだ。
中部工業大学の充実と発展、名古屋第一高等学校と名称変更し日進へ移転
学園の運営は新しい世代へと移行し、山田和夫新理事長・学園長を中心とする三浦学園は、社会に開かれた学園を目指して積極的な取り組みを始動していった。
大学院の充実に全力を傾け、次々と拡充して、1979(昭和54)年4月の工業物理学専攻博士課程の設置により、工学部8学科(現在は7学科)のすべてに博士課程の専攻が設置された。
次いで、名古屋第一工業高等学校の充実に着手し、1974(昭和49)年4月、時代の要請に応えるべく普通科を再開し、1976(昭和51)年4月からは校名も“工業”をとって名古屋第一高等学校と改めた。さらに、教育環境を整えるために、愛知郡日進町(現日進市)三本木に全面移転を計画し、1981(昭和56)年3月、すべての移転を完了して新天地で再出発し将来の発展に備えた。
創立者三浦幸平は、1975(昭和50)年3月に建設が始まった20号館の完成を心待ちにしていたが、完成を見届けることなく逝去。20号館の最上階には、創立者を偲んで三浦幸平記念室が設けられた。
中部工業大学工業専門学校開校、新附属三浦記念図書館、体育・文化センター完成
1978(昭和53)・1979(昭和54)年頃は、まだ多くの学校では、10年先の15歳人口(その3年後には18歳人口)の急減に対する危機感はまだまだ薄かったが、本学園は当時すでに強い危機感を持ち、名古屋第一高等学校の校舎移転が完了した後、ただちに中・長期構想の実現に向かって始動した。
三浦学園の発祥の地である鶴舞校地は、名古屋第一高等学校が日進に移転後、新しい構想のもとに増改築して三浦会館とした。三浦会館の構想は1980(昭和55)年から検討に入り、その利用について次のような構想が打ち出された。
- 専修学校制度における専門学校(1983(昭和58)年工業系、1984(昭和59)年度以降に文科系)の設置
- 生涯教育を視野に入れた各種教育の事業化
- 情報化社会における学園と地域社会の交流の場としての会館の利用
この構想に基づいて、1983(昭和58)年4月、中部工業大学工業専門学校を開校した。
また、大学では、新附属三浦記念図書館、情報処理センター、体育・文化センター、中部工業大学研修センター(現中部大学研修センター)が完成した。
1984(昭和59)年 ~ 1988(昭和63)年
中部工業大学を中部大学に名称変更、経営情報学部・国際関係学部を設置
大学は1984(昭和59)年4月、新たに2学部を設置して総合大学を目指すこととなり、着々と準備が進められた。経営情報学部(経営情報学科)、国際関係学部(国際関係学科・国際文化学科)の2学部は、1983(昭和58)年12月認可となり、大学創立20周年を迎えた1984(昭和59)年4月、中部工業大学から中部大学に名称変更し、総合大学として新たな出発をした。
中部大学附属春日丘高等学校を新築移転
1983(昭和58)年4月に校名変更した中部工業大学附属春日丘高等学校は男女共学となり、女子生徒の制服を制定するとともに男子生徒の制服も新たにした。さらに1984(昭和59)年、大学の北側に新築移転し、中部大学附属春日丘高等学校と名称変更した。同年に体育館と本館が完成、翌年には北校舎が完成し、1985(昭和60)年3月新築移転を完了した。中部大学附属春日丘高等学校にとって大きな転換期であり、次の展開への第一歩でもあった。
1989(平成元)年 ~ 1993(平成5)年
中部大学女子短期大学開学、春日丘中学校開校、三浦幸平メモリアルホール開館
三浦学園の女子教育の構想は、中部大学附属春日丘高等学校の男女共学化、中部大学技術文化専門学校に商業実務専門課程(秘書学科、情報経理学科)の設置、そして大学の2学部(経営情報学部、国際関係学部)設置などにはじまり、その構想は、平成元年4月、中部大学女子短期大学の開学となって花開いた。
女子短期大学設置は、春日井市をはじめ地域社会からの強い要請もあり、これに応えるべく1986(昭和61)年に準備室を設置して準備が進められた。この構想の中には、中部大学附属春日丘高等学校の男女共学化構想と、その女子生徒受け入れ、さらに中部大学附属春日丘高等学校が移転した後の校地の活用も含まれていた。
1983(昭和58)年から1989(平成元)年の6年間で、春日井キャンパスの雰囲気は一変して華やかな学園へと変身していった。
創立者生誕100年の記念にあたる1990(平成2)年には、中・高一貫教育の春日丘中学校(現中部大学春日丘中学校)が開校した。近隣にはない特色ある学校を目指した春日丘中・高6カ年一貫教育の啓明コースが誕生した。当時、県内には12校の私立中学校があったが、いずれも戦後の学制改革の時に設置された学校が多く、春日丘中学校は41年ぶりに設立されたこともあって社会の注目を集めた。
創立者生誕100年の記念事業として三浦幸平メモリアルホールの建設事業がスタートした。1990(平成2)年12月8日の学園創立記念日に着工した同ホールは1992(平成4)年3月竣工した。
1993(平成5)年には、日本の大学で学びたいという留学希望者のための、日本語と日本文化を教授する留学生別科を設置した。
1994(平成6)年 ~ 2001(平成13)年
中部大学女子短期大学を人文学部へ改組、総合大学の充実をめざして
1975(昭和50)年代後半から思い切った新構想を次々と打ち出して整備拡充を行い、三浦学園は6つの学校を擁する総合学園へと発展してきたが、学生・生徒の激減期を迎え、その対応を迫られることとなった。
名古屋第一高等学校では1994(平成6)年4月、既設の機械科・自動車科・電気科が機械電気システム科に再編され、また1997(平成9)年4月には普通科が男女共学となった。
大学では1996(平成8)年4月、大学院経営情報学研究科経営情報学専攻の修士課程を、1998(平成10)年4月には博士課程を設置した。また1996(平成8)年4月には中部高等学術研究所が発足した。さらに中部大学女子短期大学を改組転換して、1998(平成10)年4月人文学部を設置した。その後、2000(平成12)年4月、工学部に情報工学科を設置。翌2001(平成13)年には応用生物学部を設置して、名実共に総合大学へと進化していった。
中部大学女子短期大学は、1998(平成10)年3月の閉学式とそれに続く第9回卒業式をもってすべての役割を終え、2,242人が巣立った。
中部大学技術文化専門学校では、1997(平成9)年に新たに医療技術学科、ビジネス情報学科、翌1998(平成10)年に臨床工学技士科の3学科を設置し、医学と工学の両分野にまたがる医療機器のスペシャリストを育成する学科が誕生した。
山田和夫理事長・学園長をおくる
2000(平成12)年12月24日に急逝した山田和夫理事長・学園長・中部大学総長の学園葬は、翌2001(平成13)年2月28日に中部大学講堂にて、飯吉厚夫学長を葬儀委員長として、しめやかに執り行われた。当日は、あいにくの雨にもかかわらず内外から多くの来賓、学園関係者が参列し、その数は2,600人余を数えた。黙祷後、大学混声合唱団によるシューベルトの「聖なるかな」が響き渡り、会場は厳かな雰囲気に包まれた。オハイオ大学グリドン学長をはじめ代表各位が、故人の突然の死を悼み、数々の業績を讃え、また様々なエピソードを綴った追悼の辞が述べられた。弔電奉読後、再び混声合唱団がクロスの「憩いの園」を霊前に捧げ、最後に大西良三理事長が御礼を述べて、献花に移った。そして大学管弦楽団が、生前の故人が最も愛した曲の一つであるベートーベンの交響曲第七番第二楽章を演奏する中で献花を終えた会葬者に見送られ、遺族の手に抱かれた遺骨は小雨に煙る会場を後にした。
2002(平成14)年 ~ 2005(平成17)年
名古屋第一高等学校から中部大学第一高等学校へ
2003(平成15)年度に名古屋第一高等学校は、中部大学第一高等学校に名称変更し、2009(平成21)年度から普通科に一貫コースを設置して中部大学との一層の高大連携を図っている。
また、開校20周年を迎えた中部大学技術文化専門学校は2003(平成15)年4月、医療専門課程に理学療法学科を設置して、中部大学技術医療専門学校と名称変更した(2011年3月閉校)。
2006(平成18)年 ~2015(平成27)年
生命健康科学部、現代教育学部を設置
中部大学は2006(平成18)年4月に生命健康科学部(生命医科学科、保健看護学科)を、2008(平成20)年4月には現代教育学部(幼児教育学科、児童教育学科)を設置した。また翌2009(平成21)年4月には、国際関係学部に中国語中国関係学科を設置した。
2010(平成22)年には、生命健康科学部に理学療法学科、作業療法学科、臨床工学科を設置、応用生物学部食品栄養科学科に食品栄養科学専攻と管理栄養科学専攻を設置した。
さらに2011(平成23)年4月には経営情報学部に経営会計学科を、生命健康科学部にスポーツ保健医療学科を、大学院に生命健康科学研究科(生命医科学専攻・看護学専攻)修士課程を設置。また、中部大学民俗資料室を三浦記念図書館内で再拡張(約650 ㎡)し、名称を中部大学民族資料博物館に改称した。
2012(平成24)年には大学院に教育学研究科(教育学専攻)修士課程を設置、2013(平成25)年には大学院生命健康科学研究科(生命医科学専攻)に博士後期課程を設置した。
そして2014(平成26)年、工学部にロボット理工学科を、大学院工学研究科に創造エネルギー理工学専攻、大学院生命健康科学研究科にリハビリテーション学専攻を設置し、7学部30学科、6研究科17専攻の総合大学となった。
中部大学開学50周年を祝う
2014(平成26)年11月5日には、中部大学開学50周年記念式典・講演会および祝賀会を開催した。翌6日には、中部大学を含む6カ国10大学の学長らによる国際フォーラム(通称「学長サミット」)が行われた。
春日丘高等学校開校50周年・春日丘中学校開校25周年
2015(平成27)年11月11日には、春日丘高等学校開校50周年・春日丘中学校開校25周年記念式典を開催、同年12月15日には記念行事として「毛利衛氏講演会」および「第12回響演・音の宴」を開催した。これを機に、さらなる学園の一体化を目指して学園設置各校に「中部大学」の冠を付けることとし、2016(平成28)年より春日丘高等学校を中部大学春日丘高等学校に、春日丘中学校を中部大学春日丘中学校に校名変更した。
2016(平成28)年 ~
経営情報学部と国際関係学部を大幅に改組
中部大学は2016(平成28)年、経営情報学部に経営総合学科(経営情報学科、経営学科、経営会計学科を統合)、国際関係学部に国際学科(国際関係学科、国際文化学科、中国語中国文化学科を統合)、大学院工学研究科に創造エネルギー理工学専攻(博士課程)を設置した。
さらに、2017(平成29)年には、現代教育学部の児童教育学科を現代教育学科に名称変更し、現代教育専攻と中等教育国語数学専攻を設置した。
2018(平成30)年には、工学部に電気電子システム工学科と宇宙航空理工学科を、大学院工学研究科にロボット理工学専攻(修士課程)を設置した。
2019(平成31・令和元)年には、大学院生命健康科学研究科に保健医療学専攻(修士課程)、2020(令和2)年に工学研究科にロボット理工学専攻(博士課程)、2022(令和4)年に宇宙航空理工学専攻(修士課程)をそれぞれ設置した。
2022(令和4)年、中部大学第一高等学校では、機械電気システム科は創造工学科に改組し、機械システムコース、電気電子システムコース、情報デザインコースを設置した。
理工学部を設置
そして2023(令和5)年、中部大学は工学部ロボット理工学科と宇宙航空理工学科を改組し、理工学部(数理・物理サイエンス学科、AIロボティクス学科、宇宙航空理工学科)を設置した。8学部27学科4専攻、大学院6研究科20専攻を擁する総合大学となった。
さらに、2024(令和6)年には、人文学部コミュニケーション学科を改組し、メディア情報社会学科を設置した。