創立者 三浦幸平 の軌跡
1890(明治23)年8月 | 愛知県知多郡成岩町字北荒居576番地(現半田市)にて、父三浦幸蔵、母とくの二男として生まれる。 |
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1896(明治29)年4月 (6歳) | 同地の協和尋常小学校に入学、1900(明治33)年3月卒業。 |
1900(明治33)年4月 (10歳) | 成岩町立成岩尋常高等小学校高等科に入学、1904(明治37)年3月卒業。 |
1904(明治37)年4月 (13歳) | 愛知銀行(現三菱UFJ銀行)半田支店に見習いとして就職、結核にかかり退職。厳しい療養生活を送り、3年間で病を克服する。 |
1906(明治39)年10月 (16歳) | 朝鮮の平壌(現北朝鮮)のいとこを頼り、神戸港を出港。約3ヵ月間、自転車で各地を見学する。 |
1907(明治40)年5月 (16歳) | 知人の紹介で、移民船第二琴平丸(4,200トン)に便乗、神戸港よりメキシコに向かう。帰国するまで約3ヵ月の外国航路の船旅を体験する。 |
1909(明治42)年9月 (19歳) | 教師になる意志を固め、師範学校入学を志したが、年齢超過で望みを達せられず、准教員資格取得のための講習を受け、愛知県知多郡尋常小学校准教員講習所を卒業する。 |
1909(明治42)年10月 (19歳) | 知多郡常滑尋常高等小学校代用教員となる。 |
1910(明治43)年10月 (20歳) | 同郡成岩第一尋常高等小学校准訓導となる。 |
1912(明治45)年6月 (21歳) | 同郡阿久比第一尋常小学校准訓導となる。 |
1915(大正4)年4月 (24歳) | 専門的な分野を究めたいと考え、東京物理学校(現東京理科大学)理化学科に入学。 |
1917(大正6)年9月 (27歳) | 東京物理学校に通いながら、東京帝国大学造兵教室の実験助手を勤める。 |
1918(大正7)年3月 (27歳) | 東京物理学校理化学科を卒業。 |
1918(大正7)年4月 (27歳) | 愛知県立第一中学校(現旭丘高校)嘱託教員となる。 |
1920(大正9)年4月 (29歳) | 愛知県立明倫中学校(現明和高校)教諭となる。 |
1921(大正10)年4月 (30歳) | 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)助教授となる。 |
1925(大正14)年10月 (34歳) | 山田橋衛長女、愛子と結婚。 |
1931(昭和6)年4月 (40歳) | 東京帝国大学の眞嶋研究室に1年間内地留学し、空気流の実験的研究に取り組み、「空気の流れの流体力学的研究」の論文を完成する。 |
1931(昭和6)年8月 (41歳) | 名古屋高等工業学校教授となる。 |
1938(昭和13)年12月 (48歳) | 永年の夢であった工業技術教育の理想を実現するため名古屋第一工学校を創立する。 |
1939(昭和14)年8月 (48歳) | 勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与される。 |
1941(昭和16)年3月 (50歳) | 高等官三等に叙せられる。従五位に叙せられる。 |
1944(昭和19)年11月 (54歳) | 6人の子どもを残し、妻愛子が病気のため死去。 |
1945(昭和20)年3月 (54歳) | 空襲により名古屋第一工学校、分教場とも全焼、悲嘆のなかにも再起を決意する。 |
1950(昭和25)年4月 (59歳) | 愛知常磐女子高等学校と名古屋第一工学校とを合併し、新制度の常磐高等学校を設置し校長に就任、財団法人常磐学園理事長となる。 |
1951(昭和26)年3月 (60歳) | 名称を学校法人三浦学園とする。 |
1951(昭和26)年4月 (60歳) | 鶴舞幼稚園を設置し、園長に就任。 |
1955(昭和30)年9月 (65歳) | 中部高等電波学校を吸収し、念願の工業学校への復帰をはかる。 |
1957(昭和32)年12月 (67歳) | 常磐高等学校を名古屋第一工業高等学校と改め、工業高校として新たな第一歩を踏み出す。 |
1960(昭和35)年11月 (69歳) | 愛知県表彰条例により、愛知県知事より教育功労者として表彰される。 |
1961(昭和36)年1月 (70歳) | 鶴舞の校地に鉄筋コンクリート6階建ての高層校舎を3ヵ年計画で建設する。 |
1962(昭和37)年4月 (71歳) | 名古屋第一工学校創立以来の夢であった大学建設に取りかかり、春日井市に中部工業短期大学を設立し、学長に就任。 |
1962(昭和37)年5月 (71歳) | 学校法人三浦学園理事長および中部工業短期大学長として、教育の振興に寄与し公衆の利益を興し功績により、藍綬褒章を授与される。 |
1963(昭和38)年4月 (72歳) | 地元の要望に応え、名古屋第一工業高等学校春日井分校を開校。 |
1964(昭和39)年4月 (73歳) | 中部工業大学を設立し、学長に就任。 |
1965(昭和40)年4月 (74歳) | 名古屋第一工業高等学校春日井分校を独立させ、中部工業大学附属高等学校(現中部大学春日丘高等学校)とする。 |
1966(昭和41)年4月 (75歳) | 勲三等に叙せられ、瑞宝章を授与される。 |
1967(昭和42)年9月 (76歳) | 欧米の学事視察に出発し、アメリカ、メキシコ、カナダ、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリア、スイス、オランダ、デンマーク諸国の大学、研究所を視察。 |
1967(昭和42)年12月 (77歳) | 叙勲、喜寿祝賀の胸像が学内に建立される。 |
1968(昭和43)年6月 (77歳) | 韓国ソウルで開催された世界学長会議に出席。 |
1971(昭和46)年4月 (80歳) | 中部における科学と技術の殿堂として念願の中部工業大学大学院を設置する。 |
1973(昭和48)年5月 (82歳) | 国際交流の道を拓くため、オハイオ大学と姉妹校の提携。 |
1975(昭和50)年6月 (84歳) | 死去。享年84歳。 従四位に叙せられ、旭日中綬章を授与される。 学校法人三浦学園の学園葬が名古屋市民会館大ホールで行われる。 |
1975(昭和50)年11月 | オハイオ大学より名誉学位を贈られる。 |